【齋藤 薫さん連載 vol.55】涙の質は、人の本質を物語る
涙には、感動して出てくる涙、相手のために流す涙、そして自分のために流す涙の3種類があります。人前でむやみやたらに泣かない風潮のある昨今、泣いても嫌われない、泣き顔の似合う女性ってどこが違うのでしょうか? その答えこそ、愛される女の条件かもしれません。
「彼女は、めちゃめちゃいい子」みんなが興奮気味にそう証言し合う、
“愛ちゃん系”のもう一つの条件
みんなの妹だと思っていた愛ちゃんが、いつの間にか先輩となり、キャプテンとなっていた。でもいざとなればやっぱりその人は、泣き虫の愛ちゃんで、先のオリンピックでいちばん国民の涙を誘ったのは、この人の“泣き顔”だったかもしれない。そしてネットには、「なぜ愛ちゃんは、愛されるか?」というスレッドが立っていたりした。
ここでふと気づいたのが、卓球の愛ちゃんとしてより、国民のアイドルとしてよりも、むしろ日本の女として、この人は“本当にモテるタイプ”であったということ。いろいろと報道されている、台湾人の超イケメンの恋人も、愛ちゃんのことが好きで好きで、彼にしてみれば、ともかく根気よく口説き続けて、ようやく実った恋……ということらしい。
台湾では愛ちゃんのような顔立ちこそ美人と言われるし、同じ卓球選手の彼からしてみれば、彼女こそ本当のマドンナだったのだろうけれど、もうちょっと引いた目で見てみても、この人は本気でモテる、言ってみれば“いちばん結婚したい女性”に成長していた。今回はそのことに、改めてハッとさせられたのだ。
「彼女どう?」
「えー、めちゃめちゃいい子だよー」
どんな企業でも、そんな会話が交わされている。一般社会ではこの、「めっちゃいい子」という概念が、とても重い意味を持ってくるが、この愛ちゃんこそ、一般企業にいたら、あっちこっちで口々にそう言われまくられるタイプなのだろう。上司にはもちろん可愛がられ、男性の同僚には思いきり愛されていて、また女性の先輩にもちゃんと支持を得ている。そして女性の同僚にも、不思議に敵がいない。彼女を嫌う者はもちろん、首をかしげる者すらいない、目立たなくて関心を持たれないからこそネガティブのない女性はたくさんいるけれど、そうではなくてみんなに積極的に愛されている存在……。
だから、男性の同僚の中には、本気で結婚したいかもと思っている者が結構いたりする。それでも同僚の女性には敵対視されない。そこまでの存在となると、正直そう簡単ではない。「そこそこいい子」にはなれても、全員がちょっと興奮気味に「彼女はめちゃめちゃいい子」と証言し合うような存在にはそう簡単にはなれないはず。でも彼女こそ、まさにそういうタイプであると確信したのだ。そして、何がそう言わせるのかも……。 話は単純。基本的にいつも笑顔。一生懸命。責任感がともかく強い。人に迷惑をかけるのが嫌い。そして優しい。見せかけでない思いやりがある。だから、他の人のために一生懸命になれる……。
でもう一つ、意外に大切なのは、なんというか“涙もろいこと”。愛ちゃんが一選手として以上に愛されるのは、どこかに弱さを孕んでいるからなのではないか。いくらしっかりしていて、負けず嫌いでも、心がちょっと弱い……そのバランスが、愛されるためには大切なのかもしれない。どこかで少しだけ守ってあげたい、そこが鍵。いや、どどーっと頼られるのは嫌だけれど、けなげに頑張っているところは支えたい。人生レベルで考えると、男はそういう生き物だからこそ、100%頑張るんだけど、20%の弱さを持つ女性こそ「結婚したい」。そのバランスが絶妙なのだ、この人は。女としての一つの正解がそこにある。それを今回思い知った次第。あの泣き顔の魔法、女として心に刻みたいもの。
泣く女もいろいろ。
女があんまり泣かない時代、魔法の泣き顔の絶対条件
ただ一般的に“大人の女が泣くこと”はこれとは違う意味を持ってくる。涙には3種類ある。感動して出てくる涙と、相手のために流す涙、そして自分のために流す涙……この3つ。例えば、愛ちゃんの涙を見てもらい泣きしたような場合は、感動の涙と、相手のために流す涙の両方が、入り混じっていると考えて良いと思う。
そして、大人が公の場で流す涙には、例えばテレビの番組中、ノンフィクションのVTRを見て涙ぐむというシーンがある。これは確かに、人のために流す涙。しかし私たちはどうしても、これも番組の企画の一部で、ちゃんと泣くべきところで泣くという仕事の一部なのではないかと思ってしまったりする。仕事上の涙ならば、むしろ自分のための涙じゃない? と。
いえいえ、これは視聴者のいけない習性、それこそ純粋な“相手のための涙”かもしれないのに。でもそのくらい、人の涙に対して世の中が敏感になっているのは確か。誰がいつどこで泣いているか、それだけで、その涙が本物か偽物かがわかってしまうくらい、涙の種類は、その人自身を明快に語ってしまうのだ。
もちろん、自分のために泣いてはいけないなんてこと、あるはずがない。でも、公の場所で自分のための涙を流してしまうこと、これは別問題であると思う。自分のための涙は、あくまで家で、あるいはトイレの中で、1人の時に流すべき。
それは男の場合じゃないの? と言うかもしれないけど、男女雇用機会均等法というものができて以来、額面上、男と女は働く上では平等、となれば女だけが泣いていいわけはない。もっとも最近は、仕事場で、自分のために泣く男が増えているというから、あんまり目くじらは立てられないけれど、でも、仕事場で自分のために泣く女か否か、これは決定的に女を二分化する気がするのだ。やっぱり仕事で、人前で、自分のために泣くのは、理由がどうあれ、自己愛の涙、傲慢な涙、負けん気のくやし涙に他ならないから。
以前、NHKの女子アナウンサーが番組中に突然泣き出したという出来事があった。真相は今も謎のままだけれど、何の脈絡もない中で、突然泣き出すのはどう考えても自分のため。これは論外と言うべきなのかもしれない。
だから、今、泣かない女の方が正しい場面が増えた。例えば有名人の告別式お世話になったからとそこでさめざめ泣く若い女優よりも、泣かずにしっかりとその人への思いや感謝の気持ちを語る人の方が美しく見える時代なのだ。
もう一度、ここで愛ちゃんに話を戻すならば、女がむやみやたらに泣かない、泣いてはいけない時代だからこそ、この人の泣き顔が意味を持つ。あの時にみんながもらい泣きしたのは、自分のためより、やはり他の2人のため、応援してくれた人々のためがほとんどだったのではないかと思えたからこそ、多くの人の心を動かしたのだと思う。
個人戦よりも団体戦を大切にし、情熱を燃やすようなキャラクター、誰かのために必死になれる女性であることが、あの涙でみんなに伝わったから、老若男女、みんながもらい泣きしたのだ。
涙の質は、人の本質をかくも生々しく語り出す。だからできれば仕事で泣くのはやめたい。もっともっと美しい涙を流せた時、誰かがその涙をじっと見ている。そして心を動かされている。涙とはそういうもの。別の意味で、今も涙は女の武器。どうせ泣くなら、自分の涙で人を感動させるような女になりたい。
美的11月号掲載
文/齋藤 薫 イラスト/緒方 環 デザイン/最上真千子
※価格表記に関して:2021年3月31日までの公開記事で特に表記がないものについては税抜き価格、2021年4月1日以降公開の記事は税込み価格です。