顔には人生そのままが出る!【齋藤 薫さん連載 vol.67】
同窓会で久しぶりに友人にあった時、明らかに老けて見える、逆に以前よりはっきりと美しくなってる、そんな経験はありませんか? それはその人の背景にある人生の明暗が関係しているのかもしれません。3年に1回顔が変わると言われている今、エイジングに逆わらず、自然に年を重ねてキレイでいるための気構えを薫さんに語ってもらいます。
ラブコメの女王たちは、なぜ大きく変貌してしまったのだろう
人は、3年に1回顔が変わると言われる。年齢に従って、少しずつ少しずつ顔が変わっていき、それが誰から見ても明快になるのが3年後。貯金箱に10円ずつ貯金が貯まるように少しずつ変化が溜まっていって、3年後にようやく形を変えるということ。だからこそ女は、その変化に充分に気をつけなければいけない。急速に変わりすぎても変わらなすぎても違和感を残すから。人は人が変わっていく姿に対してとても敏感だからである。
例えば、「あの人は今」みたいなテレビの企画が時代を問わず人気なのも、人は人の変わった 姿を見たいから。もちろん変わっていない安心感や、前よりむしろキレイになっている驚きも含めて見てみたい。人の風貌が変わる時、 そこにはまさしく人生が凝縮されて見えてくるからこそ、面白半分ではなく、心に重くずしんとくる。単純に、極めて興味深いのだ。
欧米ではよく、変貌した女優を揶揄する記事がタブロイド紙に載るけれど、たとえ衰えによる変化でも、それをスキャンダルの1つにしてしまうほど、人は人の変貌に対して容赦がない。それこそ顔には人生がそのまま出るからなのだと思う。良く変わっても悪く変わっても。
そういう意味で、変わってしまった人としてよく名前が取り沙汰されるのが、メグ・ライアンと、レネー・ゼルウィガー。奇しくも2人ともラブコメの女王として一世を風靡した人たちだ。どちらもそのキュートさが大変な人気を誇っていた。じゃあなぜこの人たちなのか。
それこそ彼女たちは、美貌だけで売っていた女優ではなく、年齢を重ねても同じ路線で活躍すれば決して人気は衰えないはずで、非常にもったいない話。自然に年齢を重ねていけば良い感じの良いシワが刻まれていたはずなのに、そこに強く抵抗したからこその変貌ぶりで注目を浴びてしまった。大好きなこの2人には、そういう風に変わって欲しくないと言うこちらの思いがあるからこそ、余計にその変貌がショックだったのだろうが。
でもなぜ、よりによってこの2人なのか? 想像するに、ラブコメの女王ほど、実はシリアスな美人女優の役をやりたいと言う強い思いがあったりするのかも。結局いつもコメディーの主役と言うポジションから、どこか抜け出したいと言う思いがあったのかもしれない。
でもそういう風にどこかに自分に対する不満や自分を変えたいと言う妙な思い入れがあると、変わっていく時に上手に変われない。先に述べたように人は、3年に1度しか顔が変わらない。普通に自然に変われば、ちょっとした印象変化だけで済むものを、無理に自分を変えていこうとすると3年を待たずにどんどん変わり、3年目には激しく変貌しかねない。エイジングと並行して変わろうとするとコントロールが効かず振り幅が大きくなりすぎるのだ。おそらくはその弊害。本人たちは気がついていないかもしれないが。
そう、変わることに関してもう1つ怖いのは、自分ではその変貌に意外と気がついていないこと。毎日毎日同じ鏡を見ていると、目が慣れてきて、自分の変貌は見えなくなる。その分、人に余分な驚きを与えてしまうのだ。
変わることに関してもっともっと慎重に。エイジングによる変化はいいのだ。でも、世の中に望まれていない方向に変わってしまうことだけは絶対避けるべきなのだ。人をがっかりさせるから。
久しぶりの再会は、 良くも悪くもその人の評価を何倍にも膨らまし、強烈なものにする
例えば同窓会。当然のようにいつもより何倍も気合が入ってしまう。それは、そもそもなぜなのだろう。
全員同い年。何となくスタートラインは一緒だったからこそ、まとまった時間が経って、見た目に大きな格差が現れていることがちょっと怖いから。もちろんプラスに変わっているならいいけれど、せめて自分はマイナスに変わってしまった部類に入りたくないからこそ、入念な準備をする。いつもとは違う評価が待っているから当然だ。口には出さずとも、なんとなくの順位づけがそこに待っているのだから。
そう、〝久しぶりの再会〟は、 人に対して特別な評価を下す。久しぶりと言うだけで、 その間のブランクが人の印象を何倍にも強烈なものにしてしまうからである。数ヶ月前に会った位なら、前より冴えないイメージを放っていても、〝今日は疲れているのね〟程度のイメージダウンで済むけれど、基本的に2年3年のブランクがあった場合は、良くても悪くてもあらゆる印象が、額縁に入れられた位にくっきりしてしまう。
なぜなら、時間の経過がその人の人生を一緒に見ているような錯覚に陥らせるからなのだ。これまでの人生をダブらせて見せてしまうから、あらゆる変貌が、やたらドラマチックに見えてしまうのである。以前より明らかに老けて見えたら(いや老けて見えて当然なのだけれども)、彼女は苦労したのねと言われることになる。逆に以前よりはっきりと美しくなっていれば、彼女はきっと幸せなのね、と言うことに。どちらにせよ、背景にある人生の明暗が加算されて、人の印象を強烈なものにするのだ。
だからこそ、久しぶりの再会には何が何でも〝前より美しい自分〟の印象を死守しないといけない。
最近のTVCMで、ハッとさせられたのが、なんとも美しい和服の女性。この人は一体誰? と目を見張り、目を凝らして見てみたらなんと吉川ひなのさん。なんだか久しぶりに見た気がしたが、ずいぶん大人な印象になっている一方で、どきっとするほど美しく見違えていた。もともと、妖精のような美しさを持っている人だけれども、それが大人びたことでなんとも神秘的な、すごい美女になっていたのだ。
久しぶりに見た人がここまで美しいって、それは大変なインパクトを持ったもの。その時間経過で彼女の美しさが3倍にも5倍にも感じられた。ところで彼女は一体どういう人生を生きてるんだろうと、それが気になり始めた。一気に存在が大きくなり、もっと知りたくなる。存在が眩しくさえある。時間的なブランクが、そうした光を作るのだ。
同窓会は、それを何十人分も同時に見る形。眩しい光を放っている人、光が消えてしまっている人、その明暗があまりにはっきりする場所なのだ。
しかし逆に言えば、同窓会には、ブランクの長さもちゃんと踏まえた上で、きちんと準備して出かけていける。だからせいぜい、自分磨きして出かければいい。問題は、街で偶然久しぶりに大事な人と再会してしまうケース。その時ボロボロだったらやっぱりあなたは不幸な人生をイメージされるだろう。そうなってからでは遅い。だから、いつもいつも最善を尽くしておかないといけないのだ。いつ誰とどこで会うか分からないから。
それを面倒と思う人は、やっぱり美しくはなれない。結局のところ誰とも出会わなくても、毎日そう言う気構えで出かけられるかどうか、それが結果として人の美しさを分けるのである。
美的10月号掲載
文/齋藤 薫 イラスト/緒方 環 デザイン/最上真千子
※価格表記に関して:2021年3月31日までの公開記事で特に表記がないものについては税抜き価格、2021年4月1日以降公開の記事は税込み価格です。