齋藤薫の馨る女 EX
2019.8.25

「魔性の女」と呼ばれることの是非を考える【齋藤 薫さん連載 vol.89】

日本中が驚きに包まれたあのカップルの誕生に、いろいろな思いを抱いた人も少なくなかったはず。思いもつかなかったような男女の組み合わせに、記者会見後のSNSはかなりの盛り上がりを見せました。今回はあの2人の言葉から、結婚において必要なこと…について考えます。

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「魔性の女」最大の問題は、幸せになれないこと。じゃあ、“あの人”は幸せになれるのか?

「魔性の女」と言われたら、あなたは嬉しいだろうか。そうではないと否定はしても、何割かはまんざらでもなかったりするのかもしれない。説明するまでもなく、それは人を惑わす不思議な魅力。「魔性の男」という言い方はないから、あくまで女としてあっちこっちからモテまくるという意味でもあり、ある種“女冥利”に尽きるのだろう。けれども、魔性は悪魔的な意味合いを持つだけに、本人にそのつもりはなくても、悪女のカテゴリーに入れられてしまう。

映画の中の「魔性の女」は、だいたいが男を不幸にして、最後は破滅させてしまうが、これは映画的な誇張。「魔性の女」と「悪女」はそもそも別の生き物で、男の方が勝手に夢中になり悩み苦しむ、自覚なき罪人なのだ。ましてや男の方が疲れ果てて自ら離れていく、みたいなケースも意外に多く、「魔性の女」は片っ端から男を捨てたりもしない。

もちろんその一方、いきなりの心変わりで別の人を好きになってしまったりする気まぐれも、「魔性の女」の1つの定義。罪深い部分はありながらも、とても衝動的で直情的、自らの心に忠実に生きているからこそ、どこかピュアにも見え、不思議に排除されたり憎まれたりはしないのだ。

ただ、「魔性の女」の最大の欠点は、“なかなか幸せになれないこと”。無軌道に人を好きになり、無軌道にモテてしまう、そこに幸せの方程式は当てはまらない。結婚願望の強い「魔性の女」もいないはずはないが、宿命的に結婚ファーストではないからこそ、一体何が目的なのか、周りが勝手に戸惑ってしまうことにより、魔性に見えるという説もある、いずれにしても、魔性の女は幸せ至上主義ではない。恋愛至上主義だからこそ、魔性になるのだ。その結果、幸せから遠ざかるのだとしたらちょっと気の毒な存在。

そう、“幸薄い悪女”のイメージがあるからこそ、「魔性の女」と言われることにみんな抵抗するのだろう。

先ごろも、日本中を騒がせたの結婚会見で、妻となる人は「魔性の女」の汚名を返上した。日本中が羨むような幸せを手に入れた人に、もちろん魔性は似合わない。夫となる山里亮太が、この人は「魔性の女ではない」と明快に否定をしたこともさることながら、「魔性の女」があんな風にほのぼのとした幸せを勝ち取るはずがなく、だから必然的に、それは誤解だったのだねと皆が納得した。

でも、「魔性の女」と呼ばれるのは、演技派女優としては女優冥利にも尽きる事であったはず。つかみどころなく、様々なタイプの女をどこまでもリアルに演じられる演技力そのものに、魔性が感じられたのは確か。共演者との恋の噂が絶えず、恋多き女と言われたのも、才能ある演技派ほど、製作途中で本当に相手役に恋をするらしいから、それも実力のうちなのだろう。ましてや芸能界一のモテ女優と言われたことを快く思わないわけはなく、スキャンダルがらみでなければ「魔性の女」を自ら否定することもなかったはずだ。

だいたいが、「魔性の女」はなりたくてなれるものではない。だから目指すのは危険。うっかり試すと失敗する。それこそ“悪女”に見られるか、“変な女”に見られるか。そういう意味でも、蒼井 優は別格だった。本人が望んだわけではなく世間が勝手にそう思い、蒼井優と言う存在自体が神話になっていった。独身 時代は魔性を崇められながら、理想的なほのぼの結婚をする。「魔性の女」史上、ここまでのハッピーエンドはなく、これは紛れもない快挙である。

“その人といる自分”を、自分自身が一番好きであること、それこそが結婚にまつわる、幸せの鍵の鍵

皆さんご心配でしょうが、この人は決して「魔性の女」なんかではありませんから、大丈夫です……の結婚会見の“白眉”は、それこそ山里亮太がそう言い出したあたりにあったと、今更ながらに思えてくる。さらに花婿はここまで語った。「たぶん皆さんの目の前にいる蒼井さんと、違う蒼井さんを僕は見せていただいていると思うので、本当に純粋で……(中略)僕はそんな人間じゃないっていうのを一緒にいてずっと見ていたので、みなさんが思う魔性から発生する心配ってい うのは一切ございません」

こういう発言が結婚会見で聞けたのはひょっとして初めてかもしれない。男性が女性の誠実さを証言する。だから大丈夫、心配しないでと……山ちゃんは理路整然と喋るから、何か違和感なく自然な流れの中での発言だったかに思えるが、普通に考えたら異様なこと。

ただそこには極めて多くの重要な保証が隠されている。交際期間が極めて短く、ほぼ1ヵ月で入籍していること。女性の方の男性遍歴がさまざまに報道されてきたこと。そもそも日本中が度肝を抜かれるような組み合わせだったこと。それやこれやで、この結婚果たして大丈夫?いくら結婚会見がほのぼのしていても、ツッコミどころは多々あって、そのいい 雰囲気を壊してまでツッコむかどうか、常にそういう意味の緊迫感はあったはずだ。そうした空気を一変させたのがこの発言ではなかったか。意図したものかどうかは不明、でももう記者たちに何も言わせなくするほど、何もかも説明いらずにしたのは間違いがないのだ。

でも、それだけじゃない。この発言で、蒼井優は小さく会釈し涙ぐむような様子を見せたが、それは「魔性の女」疑惑を晴らしてくれたからばかりじゃない。こうした会話を二人が事前にしていたかどうかもまた不明だが、夫になる人が自分をここまで深く理解し、受け入れてくれていたことに加え、誰が何と言おうと自 分はあなたを信じて愛し続けますと公に宣言しているに等しいわけで、これが女性を感動させないはずはない。想像してみて欲しい。自分は“あなたたちが知らない彼女の素晴らしさ”を全て知っている……そういうふうに世間に公言してくれる男と人生を生きていく、そのことに感動しないはずがないのだ。

そしてもう一つ、ここには男と女における絶対の真理が潜んでいる。仮に、あくまで仮にだが、蒼井優が実際かつての報道のような恋愛遍歴を重ねてきたのだとすれば、今回はなぜ結婚にまで至ったか?その決めての一つは、きっとこれ。よく言われるのは、“その人といる自分を自分自身が一番好きであることが何より大切”ということである。ましてや結婚は、その人と一緒にいる自分を好きにならなければ絶対に幸せになれないと。つまり、蒼井優も、山ちゃんといる時は本当にケラケラ笑ったりよく食べたり見事にピュアな愛すべき女性になれるらしいし、本人もそういう自分が嬉しくて嬉しくて、だからあれは、そういう意味でのウルウル涙ではなかったか。

以前から感じていた。結婚とは、相手を選ぶのはもちろんだけれど、むしろどの自分を選ぶか?誰といる自分を選ぶのか?それも極めて重要な選択肢なのではないだろうかと。これからの人生、毎日毎日“その人といる自分”で生きていかなければいけないのだから。自分を嫌な女にする男との人生は、できる限り 避けたい。幸せは半減するだろうから。逆に、だからこの結婚は二人が幸せにならないはずはないと、皆が確信を持ったのである。あの「魔性の女」否定発言の瞬間から。夫といる自分自身をもいとおしく思っている妻の姿を見せられた瞬間から。

美容ジャーナリスト/エッセイスト
齋藤薫
女性誌編集者を経て独立。女性誌において多数の連載エッセイを持つ他、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザー、NPO法人日本ホリスティックビューティ協会理事など幅広く活躍。『Yahoo!ニュース「個人」』でコラムを執筆中。新刊『“一生美人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)他、『されど“服”で人生は変わる』(講談社)、『The コンプレックス 幸せもキレイも欲しい21人の女』(中公文庫)など多数。

『美的』9月号掲載
文/齋藤 薫 イラスト/緒方 環

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