【齋藤 薫さん連載 vol.58】地味と派手を自在に操りたい!
“地味”というとネガティブに思われがちでしたが、昨今、地味=地道、地味にすごい! など、イメージが変わってきています。地味に見えて実はとてつもない魅力を持った女、派手に見えて実はとても堅実な女…そんなギャップのある女性にあなたもなってみませんか?
とことん地味な服を着ても派手に見える
それが洗練の命であった
昔から〝おしゃれの鍵〟として呪文のように唱えてきたことがある。それが、「地味派手」ということ。地味だけど派手。派手だけど地味。こういう絶対的な矛盾にこそ、洗練の正体があると信じていたからなのだ。
子供の頃に強く憧れていた美しい音楽教師がいる。その人はいつもいつもグレーっぽい服を着ていた。グレーのワンピースかスーツのようなもの。言ってみればリクルートか修道女のようなグレー。従って、地味といえばこれ以上地味な服装はないくらい、地味だった。
ところが、その人は同時にとても派手であった。ともかく学校の女性教師の中では飛び抜けて派手、通学路の電車の中で見かけても、ぱっと1人際立つほど派手。もちろんメークが濃いわけではない、いわゆる薄化粧で、髪も肩につかないくらいのボブ、派手な要素は何もないのに。子供心に、とても不思議だった。なのになぜそんなふうに目を引くのだろうと。決して目を引こうと思っていないのに、目を引いてしまう人。でもそれこそが、女性として「美しい」と言うことなのだろうとも思ったもの。
だから今なお、そのグレーの服が忘れられない。ああいう地味なグレーの服を着て、人目を引くことができなければ、女は美しいとはいえないのだというところまで、自分の中で重要なものになっていた。つまり、地味に地味にしているのに派手に見えてしまう、そういう人しか認められないようになっていた。
アンジェリーナ・ジョリーが、プライベートではほとんど黒しか着ないことは有名で、プレミアの時などにはドレスはもちろんのこと、オフの日の私服は黒にグレーのような、わざわざ地味なものしか身につけないが、これはある種、意図的なもののように感じる。自分の存在の派手さを知っているのだろう。そういう意味でのバランス感覚、それ自体がすなわちセンスというものなのだ。服と服のコーディネートばかりがセンスではない、自分の濃度と装いのコーディネート、そこでバランスを取ること自体がその人にとっての生涯レベルの洗練度を決めるのだ。つまりそのためには自分自身の地味派手度をよく知っておくこと。あくまでもそれが洗練の源となるのだから。
つまり自分が地味なら、派手にすればいい。レディーガガは、小柄な上に自分が非常に平凡であることをよく知っていたから、今のような選択になったという。もともとは、おとなしくピアノの弾き語りをやっていたようなアーティストが、今のような史上最強の派手な設えとなったのも、なんだか常軌を逸したコスチュームで登場しない限り、音楽を聴いてもらえなかったからなのだという。だからまず服を脱ぐことで注目を集めて、自分の音楽に意識を集中させたというのだ。音楽教師も美しい人だったが、もし彼女がわざわざ人目を引くような「私を見なさい」というような服を着たら、たちまち品のない女になるタイプだったのかもしれないと、今更ながらに思う。
かくして自分と服のバランスを取ること、それがオシャレにおける最大の決め手なのである。言い換えれば地味と派手を自在に操れる、それが洗練の入り口なのかもしれない。知らない人は地味に忘れられるか、派手で失敗するかの、どちらか。全員が地味にして派手、派手にして地味、そこを狙うべきなのである。
本当はすごいのに、
そういう自分に気づいてない
〝地味すご〟がむしろ ゴージャス! !
「地味にスゴイ!」と言うドラマが話題だけれど、確かに今求められているのは、そういったバランスなのだろう。普通だけれどすごい。何気なくてすごい。言ってはなんだけども、バブルの時代は中身は薄いのに見た目がすごいといったものが、世の中の主流になっていた気がする。このドラマのヒロインの場合、見た目は派手でやってる事は地味というバランスでありながら、やっぱり中身はすごかったと言う話の展開になるのだろうが、ともかくそのギャップがかっこいいという時代なのである。そこは明らかに進化。第一印象と中身にすごいギャップがあるというのは、1つの魅力と言われているように。日々白衣を着て殺虫剤の研究とかやってる人が、とんでもなく華やかな美人だったりするようなことが最近はよくあって、それがまた魅力を倍増させるということなのだ。
そしてもちろん、偽物を嫌う時代であるのは明らかだけれど、さらに言えば大層な存在であることを隠す、そうした価値観が今の世の中が求めているとも言える。
例えばだけれど近頃話題の、とてつもない高学歴の女芸人。コロンビア大学、ハーバード大学院卒業、5カ国語を操り、インターポール、ロイター通信でキャリアを積み、CIAやFBIの内定ももらっていたという、想像を絶するプロフィールの持ち主なのに、なぜかお笑い芸人養成スクールに入ってゼロからスタートする。いやもちろん、このプロフィールが最初からバレているわけだから、このケースには当てはまらないけれど、そういう驚きょう愕がくのプロフィールを平然と捨て置いて、みんなから笑われる職業を選ぼうとする、そのメンタリティーそのものが分からなすぎるけど新しい。お笑い芸人は少しも地味ではないけれど、でもその激しいギャップと、別の意味で簡単ではない世界で、1からキャリアを積み直そうとする〝地道さ〟を考えると、今時の「地味にすごい」にも通じるパターンではないかと思う。すごいプロフィールを、あんまりすごいと思っていない、(少なくともそう見える)、別に自分は普通だと思っている、良い意味での鈍感さが素敵、いかにすごいキャリアを持っていても、それを鼻先にぶら下げて生きるのは、価値あることとは思えない、そういうことに敏感な時代なのだ。
地味派手、大人かわいい的な矛盾に洗練の掟があると言ったけれど、今や生き方においてもそうした二面性や矛盾があったほうが存在感を持つと言うこと。言うまでもなくその方が、奥行きのある、無限の可能性を持った人に見える。いやもっと言えば、すごいのに、すごいことを言わない、普通のふりをしているのは、人としてとてもゴージャスなことなのは、間違いないのだ。
「自分を大きく見せる」という言い方があるけれど、むしろ“自分を小さく見せる”方が、結果として人間が大きく見えるということ。謙虚であるのとはまた違う。謙虚とは自分のポジションがわかっていて、礼儀や処世術として、遜ることをいうが、なんだかもっと大らかな、自分がすごいということに気がついていない人が眩しいということなのだ。
地味派手にしても、地味にすごいにしても 、キーワードは地味という事。地味であることがトレンドなんて、不思議な時代だけれども、例えば芥川賞作家となった、ピース又吉が未だにオドオドしている事がなんだか嬉しいのと似ているのかもしれない。存分に自信を持っても構わないのに自信なさげ、それがかえってゴージャスな時代。
地味に地味をやっているのではもちろん意味がない。何らかすごいものをちゃんと持っているのに、地道に地味に生きている、そんな生き方を改めて検討すべきなのかもしれない。
美的2月号掲載
文/齋藤 薫 イラスト/緒方 環 デザイン/最上真千子
※価格表記に関して:2021年3月31日までの公開記事で特に表記がないものについては税抜き価格、2021年4月1日以降公開の記事は税込み価格です。