向坂くじらさん連載「そうでないものの美」 Vol. 06
詩人・小説家の向坂くじらさんによる連載、第6回目のテーマは「遠くにあるものの美」です。
Vol. 07/遠くにあるものの美
あこがれ
背中がまるまっている
知らないだれかを
傷んで帰ってきた人の
かたい背中がまるまっている
抱えるうえからわたしも
とほうもなく抱え
なでる手のひらをくりかえして だけどそれで
何回ほんとにさわれただろう
まるまっただけ あなたの
底のあなたは小さくなって すなわち
遠ざかっていった この手の
とどかないところまで
はるかなものが
いつでもそうであったように
あこがれ ひとつ置いて
背中がまるまっている
アア
そんなにきれいではいけない

海にしたって山にしたって遠くから見るほうが好きだという人と結婚した。
わたしはと言えば、子どものころは海といったらスノーケルをつけて、山といったらテントに泊まって育ったからか、すぐにはそれを呑みこめなかった。せっかくだったら水やら土やらにさわれるほうがいいじゃない、と思うのだ。けれど夫に言わせれば、その「さわれる」がいけないんだという。
それは同時に「さわられうる」ということでもあって、近いほど安全さを失っている、それはけっきょく肝心の見て楽しむ余裕まで失っているんだ、というのが、その主張だった。
まあ、一理はある。それに確かに、そのものからずっと遠ざかってみてはじめて見える美しさというのもまた、あるかもしれない。星空や送り火やコスモスがそうであるように。
それからまた、子どものころのことも。水面から遠く見おろした珊瑚礁のモザイク、その、思い出に特有のきらめき。そしてスノーケルをくわえたわたしが、友だちのいない子どもならみんな持つあの痛みをも、ひそかに海に浮かべていたこと。夏休みが終わったら学校に戻らないといけない。そう思ったら、テントの中でだってくちびる噛んで眠ったこと。
それを大人のわたしが、星のように美しいと思ってしまうのは、けっきょく安全な場所に立っているからにすぎないのだろうか。遠くの美しさというのは、単に細部をぼやかして見ないようにしただけの、無責任さのことだろうか。つまり―遠くから見ているというだけで、わたしはあなたを焼く火さえ、美しいと思うだろうか?
そうして思う。美しいということは、かならずしも善いこと、正しいことを意味しない。けれど裏がえして言えば、正しくなさはかならずしも、美しさを否定できない。ごめんね、と思う。ごめんね、あなたを美しいと思うことを、ゆるしてね。けれどわたしはわたしから、ずっと遠い。さわれないものの美しさ。
そうして、あんなに大きいはずの山が、手をのばしたら指のあいだに収まると気がついたときのあのうれしさのことを、それがそのときほんとうだったことを、考える。
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「そうでないものの美 」※価格表記に関して:2021年3月31日までの公開記事で特に表記がないものについては税抜き価格、2021年4月1日以降公開の記事は税込み価格です。
さきさか・くじら/慶應義塾大学文学部卒。国語教室「ことぱ舎」主宰。詩集『とても小さな理解のための』(百万年書房)『アイムホーム』(百万年書房)など多数刊行。小説『いなくなくならなくならないで』『踊れ、愛より痛いほうへ』(河出書房新社)が芥川賞候補に選ばれている。