向坂くじらさん連載「そうでないものの美」 Vol. 07
詩人・小説家の向坂くじらさんによる連載、第7回目のテーマは「不潔なものの美」です。
Vol. 07/不潔なものの美
パッキン
それだのに
うちの蛇口の根っこには
もう 水がもれて
ぬるつきだしている
蛇口はうなだれてだまっている
こらえても こらえても
もれてくるのです というふうに
そばには二十三時の鏡
それからかみそり
名乗りでるみたいにばんざいしたら
もう わき毛のさきっちょ
わたしの
根っこからもれてくる
ぬるつき
こらえても
こらえても生きているのです
鏡のなかのわたしが踊ると
わき毛も踊った

どうして清潔であることと美しいことをともに「きれい」という言葉であらわせるのか、ということに、そういえばまだ納得していない。
清潔という意味での「きれいにしなさい」という言いつけを、わたしたちはよく聞かされる。どうして「きれいに」しないといけないかと言ったら、第一には、他人とともに暮らしていくためだろう。なにをもって十分「きれい」と認めるか、という基準だって、人びとのあいだで作られたものにすぎない。だからときには行きすぎたり、集団やルールが持つ力の、らんぼうな使い方と結びつくことだってある。それを美しさという、たったひとりの場所にも生まれうるものと同じ呼びかたをして、本当にいいのだろうか。そして、「きれい」であろうとするあまりに見過ごしてしまう美しさというものが、どこかにあるんじゃないか。
そんなふうに思いいたったのは、手を洗ったときだ。草むしりのあとだったから、爪と指のあいだにも、掌紋の細かな筋にも、土が詰まっていた。ハンドソープが水をふくんで、わあっと土色にふくらんだ瞬間、とり返しのつかない気持ちになった。あ。手のひらについた土のもようを、もっと見ておいたらよかった。いまなにか得がたい、そうだ、「きれいな」ものがあった気がした。けれど、もう遅かった。泡を流したときには、手はしらじらと「きれい」になって、そこにはもうなにもなくなっていた。それからしばらくのあいだは、自分がどろんこ遊びの好きな子どもだったことを、ぼんやりと思いかえして過ごしたのだ。
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「そうでないものの美 」※価格表記に関して:2021年3月31日までの公開記事で特に表記がないものについては税抜き価格、2021年4月1日以降公開の記事は税込み価格です。
さきさか・くじら/慶應義塾大学文学部卒。国語教室「ことぱ舎」主宰。詩集『とても小さな理解のための』(百万年書房)『アイムホーム』(百万年書房)など多数刊行。小説『いなくなくならなくならないで』『踊れ、愛より痛いほうへ』(河出書房新社)が芥川賞候補に選ばれている。